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旅vol.3 食と暮らしを探す 山梨県早川町

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焼畑と伝説と信仰の町、「かつての日本」を探す旅へ



 早川町は人口約1150人。日本で最も人口の少ない「町」だ。しかし、かつてはダム建設などで約1万人の人々が住み、賑わいを見せた時代もあったという。
 立秋は過ぎてもまだ残暑の残る9月20~21日。赤石山脈の麓、時代に翻弄されつつも、町としての歴史を歩み続ける山梨県西部、早川町を訪ねた。協力=(一財)都市農山漁村交流活性化機構・南アルプス生態邑


早川の秘境「奈良田」で聴く伝説



 宿にチェックインを済ますと、早川町の北端、古くから多くの湯治客で賑わった西山温泉郷のある奈良田地区へと向かった。ここで奈良田に伝わる民謡を聴くためだ。
 明治の頃、旧奈良田村があったこの地域は、古くから多くの伝説が残る地として知られていた。特に、1255年程前の奈良時代、時の女帝孝謙天皇が湯治を行うため奈良田地区に居を構えていたと伝えられている。

 「奈良田という地名、数多く残る民謡、他地域とは少し異なる言葉……伝説と分かっていてもひょっとすると、と思うのです」。
 民謡を披露してくれる奈良田在住の深沢さんが感慨深げにそう語ってくれた。深沢さんらが唄う民謡は、どこか儚げでありながらも力強く、時代の中で変化を余儀なくされながらもこの町で生きてきた人々の息遣いが感じられるようでもあった。


焼畑の歴史 山里の暮らし



 もう一つ、早川町を代表する文化が「焼畑」だ。急峻な山々に囲まれ、多雨冷涼、日照の少ない早川町では稲作は向かず、雑穀を主に栽培する焼畑が各地で行われていた。しかし、ダム建設などの発電所開発が始まり、農家よりも建設業に従事する人が増え、昭和30年頃には焼畑文化もなくなっていったという。

 奈良田地区にある歴史資料館に、かつての焼畑の歴史的資料が展示されていた。
 「焼畑はおっかないものだ」。
 焼畑を再現したビデオの中で、ナレーションがかかった。厳しい山里で、それを受け入れながら営んできた暮らしが目に浮かぶ。


東と西の境



 続いて向かった先は、町のちょうど真ん中辺り、新倉地区とよばれる場所だ。ここは、かの有名な「糸魚川静岡構造線」が通る場所で、地質的に、東日本と西日本を分ける境目に位置する。細い山道を上った先の河辺の岸壁に、黒色の岸壁の上に緑がかった岩がせりあがった「新倉断層」がむき出しになっていた。ここは、国の天然記念物にも指定されており、新しい東日本側の黒色千枚岩の地層の上に、古い西日本側の緑色凝灰岩の地層が重なる「逆断層」と言われる状態だという。


時代に翻弄された町



 断層のある「新倉地区」は、かつて、ピーク時には1万人の人々が住み、新たな集落を形成する程であったという。なぜ、この山里に、かつて1万人の人々が暮らしていたのか―? その歴史には、経済成長を進める日本とそれに翻弄された町の姿があった。

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 明治に入ると、この地域ではダムなどの発電所開発が盛んに行われるようになる。それだけでなく、製紙産業も盛んで、パルプを供給するための木を伐り出す発信基地としても栄えた。
 地域最大の集落とまでいわれた「新倉」は昭和前半には「新倉銀座」とまで呼ばれるほどの賑わいを見せた。電力会社の社宅、商店、旅館、映画館までもがあったが、現在、この新倉地区で商店を営む店はほとんどない。かつて旅館業を営んでいただろう家屋に残る手の込んだ窓柵の細工が、その面影を物語る程度だ。

 多くの人々がこの地を去ったのは、昭和40年代頃に訪れた発電施設の無人化が要因。昭和の大合併(昭和31年)の際、この新倉(旧三里村)を含めた6村が合併を行い、現在の早川町が形成された。しかし、ピークを過ぎた後は徐々に人口が減り、現在、早川町の人口は1000人余り。それでも、平成の大合併で合併を選ばず、町としての歴史を歩み続けている。


町長を囲む夕べ



 旅の1日目、本日の宿である「ヘルシー美里」へと戻った。いよいよ、ここを会場として、辻一幸町長を囲みながらの夕食会が開催された。会津若松市の山際食彩工房山際博美シェフの料理を頂くことになっている。
 早川町に視察に来たある山村の方が、「早川町に生れてこなくて良かった。こんな悪条件の町でも合併を選ばないのだから、私達の町はまだいい」とまで言われたと、笑いながら町長は話す。「厳しい半世紀だった」と語るその言葉からは、早川の歴史と文化を何としてでも守り続けようとする思いが感じられた。


山際シェフの料理



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 焼畑が行われなくなった今でも、雑穀の栽培を行っている家庭は少なくない。山際シェフの料理は、そうした雑穀や特産の芋がら、ハチミツ等、早川町の素材をふんだんに使ったメニューとなった。「もちあわのクスクス」「芋がらのロールキャベツ」「芋がらと南瓜と小松菜の白和え」……素材の良さを活かしながらも和風から洋風、またはエスニック的な要素まで加えた趣向を凝らした料理の数々が並んだ。

 さらに、「ハムとベーコンのスパイスと生姜風味の蜂蜜ソース」など、早川町で作られたハムやベーコンを使った料理も並んだ。早川町は昭和30年代、養豚業が盛んに行われていたという。しかし、現在は高齢化や飼料の高騰が影響し、養豚を個人で営む人はひとりもいない。

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 その養豚の歴史を少しでも復活させようと、昭和63年にハム工場を設立、素材は山梨県内から良質な豚肉を仕入れ、ハムだけでなくベーコン、ソーセージなどを製造しているという。


早川町の自然を歩く



 2日目、朝食を済ませて向かったのは「南アルプス邑野鳥公園」。木、野鳥のさえずり、落ちている木の実……、目にしたことや聞いたことはあってもなかなか観察をしたり、名前を調べたりなどしないもの。
 「これはオニグルミです。ネズミが食べた痕がありますね」。「昔行燈の油をとった木で、アブラチャンといいます」。
 ヘルシー美里の菊池早苗さんの案内のもと、林の中を歩いていると、普段の生活では見落としてしまいがちな小さな発見があることに気付かされる。


硯の町「雨畑」へ



 次に向かったのは、早川町の南側、雨畑地区にある「硯匠庵」。
 早川町の特産品のひとつに「硯」がある。雨畑地区では、昔から良質な原石が採れ、硯づくりが盛んに行われてきた。1日目に新倉断層で見た粘板岩の中でも良質なものだけが「雨畑真石」と呼ばれ、硯となることが出来るという。滑らかで黒々と鈍く光る硯は、自然と人の技術、その両者が織りなす美しさが体現されている。

 かつて20数人いたとされる雨畑硯の職人は、現在たった1人。しかし、今でも鉱山からは雨畑硯の原石が掘られ、文化を継承し続けている。


信仰の里 赤沢宿



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 いよいよ旅の終盤、最後に向かうのは信仰の里「赤沢宿」だ。町の南部、日蓮宗の総本山身延山と同じく日蓮宗の霊山である七面山の間に位置する、信仰で栄えた集落だ。
 自動車が一般化する前は、身延山に詣でた後、赤沢に一泊し、七面山に登るというルートが一般的だった。特に江戸時代から庶民の物見遊山が一般的になると「赤沢詣で」と呼ばれ徐々に人気を博し、最盛期の明治時代には参拝客で大いに栄えたという。しかし、かつて最盛期には9軒あった旅館のうち、今も営業を続けるのは1軒のみ。七面山までの登山道が整備された後は、参拝客は赤沢から徐々に遠ざかっていったという。

 山肌を沿うような細い山道を上っていくとふと視界が開け、木造の立派な建物群が立ち並ぶ集落に辿り着いた。山の中腹に形成された集落、急斜面に耕された畑、石畳など、一般的にみられる宿場町とはまた違う一種独特な景観を成す場所だった。


時代により様々な変遷を辿った町「早川」



 南北に長い早川町は、それぞれの地域でそれぞれ特殊な歴史を辿ってきた。合併する以前から、現在の町内の集落間での交易よりも、山を越えた隣町との交易の方が盛んだったというから、地域ごと独特な雰囲気を持つこともうなずける。
 早川町では時代の流れを受け、結果途絶えてしまった文化もあることだろう。しかし、受け継がれたものも確かにあり、その文化を受け継ぎたいとする人々の存在が、早川町の魅力に繋がっているのかもしれない。

※これは、(一財)都市農山漁村交流活性化機構が主催した「食材探しの旅&市町村長と語る旅 in 早川町」のレポートを改編・再録したものです。同機構のwebサイト「食と農の絆」にも掲載されています。

(平成26.3.10 産直コペルvol.4より)
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